ルール「持ち駒が余らないようにする」

はじめに

俺は詰将棋のルールに興味があるけど、詰将棋を解くのは苦手で、
詰将棋界のこともよく知らずにこれを書いている。
「美しさのため」とか断定的に書いてすみません。
全ての文末に「〜と思う」を補って読んでください。

そういえば、ルール通りに解くと駒が余らないという性質は、
駒が余ったら不正解とわかるという意味で解き手に親切な面もあるんだな。

ほんろん

詰将棋で、「持ち駒が余らないようにする」というルールがある(あえて曖昧な言い方)。
このルールの意味は、なかなか難しい。

まず、現実に詰将棋界で運用されているルールでは、
玉方の逃げ方を選ぶときに、詰まなくなるほうへ、手数が長くなるほうへ、
そして持ち駒を使い切らせるように逃げることになっている。*1
これをまとめて「玉方最善」と言ったりする。

手数が長ければ詰ますのは大変だし、駒が余らないなら余裕がないことになる。
つまり、攻方になるべく楽をさせないように逃げろ、という思想だ。

他方、詰将棋を作る側は、解いたときに駒が余らないように作る必要がある。
これは、解くときのルールとは関係ない。
解くときのルールからは、駒が余らない作品を作れという要請は出てこない。
駒が余らないほうが美しいから、余らないように作っているのだ。*2
こちらは、詰将棋は美しくあれ、という思想だ。

さて、以上を何となく曖昧に知った上で「持ち駒が余らないようにする」を見ると、
別の解釈が出てくる危険がある。
それは、「攻方も、持ち駒を使い切る手を選ぶべき」という誤解。*3

まず、攻方は詰みさえすればどの手を選んでもいい。仮に余詰があっても作者の責任だ。
だが、ルールを知らずに「美しくあれ」という思想だけを感じている人は、
攻方の手番でも駒を使い切ろうとしてしまう。
もちろん攻方は何をしてもいいのだから駒を使い切ろうとしてもいいのだが、
事態はそう単純ではなく、不正解になってしまう危険があるのだ。

例えばこの詰将棋。正解は、▲32飛成△22合▲23金の3手詰。*4
ここで、▲32飛成△13玉▲14歩は、不正解である。理由は「駒が余るから」。
▲14歩で▲14金なら駒が余らずに詰む。しかし▲14歩は正解の手である。
なぜなら、▲14歩で詰んでいるから。
不正解の手は△13玉だ。
△22合ならどうやっても駒は余らないが、△13玉は▲14歩とされて駒が余る。
△22合と△13玉を比較すれば、駒を余らせない△22合が最善の逃げ方だ。
当然ながら、▲32飛成△13玉▲14金も(駒は余ってないけど)不正解である。

攻方は、詰みさえすれば何をしてもいい。▲14歩も▲14金もその局面では正解だ。
だが、▲14金としては、△13玉が不正解だということが判明しない。
つまり、玉方の手を考えるとき、その読みの中では、
攻方は「駒が余るように」攻めなければならない。
「玉方最善」というルールは、そこまで厳しいことを要求しているのだ。

この「駒が余るように」は、「持ち駒が余らないようにする」の逆である。
ここが理解できていないと、上のように不正解の手順を選んでしまうことになる。
結局、攻方になるべく楽をさせないように逃げろ、という思想はわかっても、
駒を使い切らせたほうが楽をさせないことになる、というイメージが難しいのだろう。
玉方が使い切らせようとするなら、攻方が駒を余らせようとするのは
将棋というゲームの性質上当然のことなのだけどね。

駒余りに関する解き手のルールは、攻方に楽をさせないためのもの。
駒余りに関する作り手のルールは、美しさのため。
これをごっちゃにしてはいけない。ごっちゃにさせてはいけない。
ここまでしてきたのは、変化別詰の話だ。
ただでさえ難しい変化別詰が、駒余りで出てくると非常にわかりにくい。
解き手は、ルール通りに解けば何でも正解だが、ルール通りは意外と難しいのだ。

おわりに

このエントリを書いたきっかけは、
詰将棋のルール: 詰将棋メモの「同手数駒余りの別詰を発見しないと不正解?」。

ルールがわかりにくいことによる弊害が露骨に現れている。
俺とは比較にならないくらい、詰将棋を解く・作る力がある人なのに、
ルールがきっかけでブログの更新(詰将棋の発表)をやめてしまう。
そんなことがあるのか、と驚いた。

*1:駒が余る逃げ方しかない場合は、もちろん駒が余ってかまわない

*2:ただ、駒を使わせるルールによって、駒が余らない作品を作りやすくなっている面はある

*3:そもそも攻方が複数の手を選べるというのは余詰であり問題の不備なのだが、最終手の余詰はほとんどの場合許容される

*4:▲32飛成△22合▲13金△同玉▲14歩△12玉▲13歩成という余詰があるけど、「迂回手順は避ける」というルールがあるのでたぶん大丈夫