質を生むには量が必須

自分はアセンブラライフゲームが書ける。
書き始める前は簡単だと思っているし、完成した後も「さしたる困難はなかった」と思う。
だけど、作っている最中は、つまらないバグや勘違いで時間を消費するのだろう。
結局のところ、自分のアセンブラ能力の限界はライフゲーム程度の場所にある。
自分はC言語でオセロが書ける(強さは別にして)。
アルファベータは知っているから、素人の自分より少し強い程度のプログラムなら、
一つも困難を乗り越えずに書けるはずだ。
ただ、やはり時間は相当使うことになると思う。
この流れからすると、自分はアセンブラでオセロが書けるだろうか?
実感はできないが、冷静に考えれば、「書けない」というのが正しい答えだ。
私はCでオセロが書ける、Cをアセンブラに直すこともできる、
だからといって、アセンブラでオセロが書けることにはならないのだ。
アセンブラでオセロを書くには、アセンブラライフゲームを書くときに、キーボードをよどみなく打ち続けて完成する、というくらいの力が要ると思う。
そのくらいのスピードがなければ、オセロを作っている途中で頭がこんがらがってしまうだろう。
進むには汚いツギハギをするしかないという泥沼感を知っているはずだ。
オセロという「質」を得るためには、オセロよりも一段質の低いものに対してのスピードという「量」が必要なのだ。
そして、アセンブラでオセロを書ける人は、何か特殊な能力を持っているわけではない。
たかがオセロが書けるだけだ。C言語でよければ自分にも書ける。
しかし、その人にかかれば、C言語でもっと優れたプログラムが書けてしまうだろう。
やはりここでも質という形で違いを見せ付けられるのだ(相手は特殊な能力を持っていないのに)。
計算ドリルは大事だ。
中学生のときに、簡単だけど面倒だと思った(a + b)^2の展開。
今では8 + 7の計算と変わらない、考える必要すらない。
「簡単だけど面倒だから嫌」という感覚はおかしかったのだ。
本当は「嫌なほど面倒なのは理解が浅すぎる」のだ。
簡単な計算を一瞬でこなし、公式を血肉として(暗記は血肉にする手段にすぎない)、
初めて次のステージに進む足を得る。
簡単と思えるだけでは甘い、このことを知らなかった。