男性からの視点で、アニメを2つに分類する。
まず、「ドラえもん」タイプ。
ヒロインはしずかちゃん。相手は主人公の男(のび太)。
しずかちゃんはヒロインとして絶対的な力を持っている。
もう一つは、「カスミン」タイプ。
主人公のカスミンが女の子。相手は霧彦。
ドラえもんと比べると新しいアニメで、デザインがかわいい。
ここで、「カスミンは俺の嫁」と言っている人は一定数存在したが、
「しずかちゃんは俺の嫁」というのは発言自体に違和感がある。
仮に言うなら「しずかちゃんはのび太の嫁」とするしかない。
別に「しずかちゃんは俺の嫁」と言ってる人のことを否定する意図はないが、
そういう人はかなりマイナーな性癖の持ち主だと思うので、ここでは無視する。
例えば幼稚園くらいの男の子が布団の中で女の子の妄想をするとき、
その女の子がしずかちゃんであれば、相手はのび太しか考えられない。
アニメキャラと生身の自分が交われるなんて、純粋な子供なら思いもつかないはず。
ドラえもんにおいて、視聴者はまずのび太に感情移入し、そこからしずかちゃんを見る。
そもそもアニメのしずかちゃんは、そんなにかわいくない(特に1990年頃)が、
のび太の目で見ることで、片思いの同級生に変貌する。
それに対し、カスミンや最近の深夜アニメでは、ヒロイン自体の魅力が強烈だ。
そして、霧彦は主人公ではないので感情移入できるようになっていない。
これで「ドラえもん」と「カスミン」の違いが明確になる。
視聴者にとってのび太としずかちゃんがくっつくのは嬉しいが、
カスミンと霧彦がくっつくのは、それ自体嬉しく思う理由がないのだ。
たとえヒロインが幸せになっても、自分以外の男のところへ行ってしまうことを、
寂しいと思うようなことはあるかもしれない。
アニメキャラに彼氏がいたら嫌だというような話は、最初に見たときは変だと思った。
アニメにとって女の子キャラは表現の手段であって、作品本体ではない。
でもそれはドラえもんタイプの考え方だった。
ドラえもんタイプの考え方は今でも普通にある。
ラノベ原作のアニメは大抵のび太の役割を果たす男主人公がいるし、
同じ意味で男キャラを置く作品はそれなりにある。
ギャルゲーなんかは、こういう男主人公の存在がほぼ必須だろう。
この「のび太」を使う手法には大きなメリットがある。
上にも少し書いたが、視聴者を巻き込んで恋愛描写ができるのだ。
その意味で、カスミンタイプ、特に「けいおん」「ひだまりスケッチ」のような
視聴者が「見てるだけ」になるような作品は、けっこう頑張っている。
おそらく、内容勝負で作る中で、「女の子」のデメリットを最小限に留め
そこそこのメリットを簡単に享受しようという魂胆だろう。
そういう「男の出てこない」作品は、確かにここ最近ずいぶん増えた。
更に、作品に必要な男キャラすら不要と思う視聴者が現れてきたとすれば、
大げさに言って「発狂」するような話が出てきても不思議ではない。
男がいなければリアリティがなくなり、女の子はより抽象的な存在になるから、
そこに突如現れる彼氏という強烈なリアリティが拒絶されるのは当然とも言える。
最初にアニメを2つに分類したが、3つ目、「けいおん」タイプが加わった。
ヒロインは各視聴者が決める。男は出てこない。
個人的には、「ひだまりスケッチ」や「GA」で男キャラがたまに出てくるのが好き。
感情移入までは行かなくても共感できるから、男と女を結ぶ線ができて空間が一気に広がる。
作品の流れを切る・筋を逸脱するということがない限り、これはいいことだと思う。