純碁はわかりやすい?

自分が純碁で「囲碁はどんなゲームか」を知ったので、どうしても純碁推しになるが、実際そうとも言い切れないと思うようになった。というのも、ルールがわからない頃の自分が純碁という言葉を、おそらく知っていたからだ。

囲碁の終局はwell-definedか - Togetter
黒木玄 Gen Kuroki(@genkuroki)/「#CGoT」の検索結果/Page 3 - Twilog
これが今年の2月。純碁という言葉が出てくる。これを読んだはず(当時、内容はさっぱりわからなかった)。純碁について、「交互に着手して最終的に石の多いほうが勝ち」程度の認識はあったんじゃないかと思う。…いや自信がない。全く覚えていない。でもさすがに「純碁」でググるくらいのことはしたと信じたい。

僕が「純碁はどんなゲームか(ルールだけではなくゲーム性も)」を知ったのは、COSUMIというサイトの純碁で「石の数を競います」の記述を見て5路盤をプレイして勝ったことによる。今まで、「純碁」であることが重要だと思っていたが、「石の数を競います」の記述が目に入る場所にあったことも大きいし、何より5路盤に手軽さを感じ「実際にプレイしたこと」が本質なのではないかと思うようになった。「勝ったこと」も大きい。囲碁のルールすらわからなかった男が、目立ったハンデもなしに(実際は先手であるだけで超絶有利)勝つのである。素晴らしいゲームバランスと言わざるを得ない。

http://www.cosumi.net/replay/?f=j&b=You&w=COSUMI&k=0&r=b7&bs=5&gr=ccbccbcdddbebbdeedadabaceecedcttbattcattdattdbttecttebtttt
今、COSUMIで1局打ってきた。「実際にプレイしたこと」によって何を得たかを、この棋譜を通して説明する。

まず、普通の囲碁(日本ルール)だったら、15手目に黒が4-3(真ん中から1こ右の場所)に打ったところで双方パスして終わりになる。確かに、ここでゲームが終わってる感はあるよね。あとは黒が石を埋めるだけの作業。その間、白はひたすらパスをしているだけ(今回は、たまたま白に石を埋める作業がなかった。負けたから埋めないわけではない)。

純碁といえど、やっていることは陣取りゲームである。例えば、9手目の黒5-4。これは、「これ以上こっちに白を侵入させない」という手だ。欲張るなら、5-5に打てば自分の陣地はより大きくなるが、これは次に白が5-4に打つと取られてしまう。なので、精一杯欲張って5-4に打ったというわけ。

囲碁のルールがわからない」と言っていた自分が、初めて純碁をプレイしたときも、こういう感覚はあった。実際にやってみることで、「精一杯前線を押し上げ、最後は確保した空き地に自分だけ石を埋めて勝つ」というゲーム性が、おぼろげながらわかったのだ。たった1回プレイしただけで。

5路盤は、自分と相手が1つずつの陣地しかできないからわかりやすい。有利な先手番であれば、二眼の概念をよく知らない状態でさえ勝ててしまう。それでも、囲碁のゲーム性がある程度わかるまでになれるのだ。「19路盤の面白さ」などは当然わからないが、「19路盤の囲碁がゲームとして成立する」というのを納得できるようになる。

さて、純碁で囲碁が少しわかるようになるなら、普通の囲碁も、そうなのではないか。「活き石で囲まれたのが地で、死石は相手のハマへ、ハマで相手の地を埋めて、地の大きいほうが勝ち」まるで暗号文だが、最初は「自分の石で囲んだ面積の大きいほうが勝ち」くらいでいいだろう。そして、5路盤の実戦を1局見せて「こういうふうにやるんだよ」と教えてあげれば、やれると思う。

個人的には、純碁と普通の囲碁で、表面的なルールは全然違うのにほぼ同じゲームになるという点に(ある程度囲碁のルールがわかったあとで)感動したので、やっぱ純碁から入ってほしいかなーとか思っちゃったりもするんだけどね。でもこれは個人的なこと。自分と全く違うタイプの人間が、囲碁を好きになる、対局できる、それこそがこういったゲームの面白さでもある。

過去の自分は何をわかっていなかったのか

ずっと以前から持っていた疑問は、盤面を黒石で2つに分断したとき、どちら側が自分の陣地になるのかというもの。この判定方法がどこにも書いてない。この疑問に対し、答えだけ言えば、両側が自分の陣地(地)である。それが終局図なら、空いた交点は全部黒の地。でも、普通はそんな終局図にならない。あまり大きく囲うと、黒の陣地に白が石を打ってきて、白地を作られてしまう。白石だけで囲まれていればそれは白地である!その白石が取られてしまうようでは意味ないけど。対して、小さく囲っていれば、黒の陣地の周辺には黒の石が多くなり、そんなところに白石を打ってもすぐに取られてしまう。

まとめると、次の点がわかっていなかった。自分の石で囲んだだけでは地にならず、相手が囲んだ中に石を打ってくることがあるという発想がなかった。囲めば取れるというルールと、地を多くするという目的の関係がわからなかった(囲めば取れるというのは物理法則にすぎなかった)。「二眼は生き」がルール(公理)から導ける定理であることを知らなかった。

二眼以外にも生きがあるのか、二眼でも生きでないことはあるのか、二眼とルールの関係は何か、二眼と勝敗(スコア)の関係は何か、こういうのを「察しろ」というのは無理である。今でもこの辺は、どういう定義が自然で判定方法とそのコストはという問いに答える自信がない(もちろん感覚的にはわかるけど)。

物理法則が字面上わかっても、じゃあその宇宙ではどんなことが起こるのか、またどんなことは滅多に起こらないのか、絶対に起こらないことは何か、そういうことはわからない。純碁のようなわかりやすいルールでも、どんなゲーム性を持つのか、あるいはゲームとして成立しているのかということは、プレイもせず教えてもらいもせずには、わかるわけがないのだ。

ちなみに、例えばどんなことが起こるかというと、上に書いた「5-4に打った」という話のように、自分の陣地を広く、相手の陣地を狭くという手を考えることになる。もっと大きい盤面では、もっと色々な面白いことが起こるらしいが、それについては、まだ知らない。また、滅多に起こらないこととしては、上の棋譜の15手目のような局面から白が黒地に侵入してきて白地を作られてしまうというのがある。経験上、こういう場所に白石を打っても生きられないとわかる。絶対に起こらないことは、二眼を持つ石が取られること。ただし、自分で自分の眼に石を打つような真似をすれば、取られてしまう。二眼を理解した単純ミスのないプレイヤー同士なら絶対に起こらないという意味なので、ちょっとややこしい。

純碁のルールはシンプルだけど、それを聞いて、19路盤のサイズでゲームになると判断できるわけではない。多くの場合に通常の終局が訪れるという保証もない。石を大量に取って取られて、また序盤に戻ってしまうかもしれない。ひどくつまらない進行になるかもしれない。ちょっとでも囲碁をやったことがあればこんな疑問は起きなくなるが、逆に経験がなければ本当にわからない。